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「朴訥の論」コラムの記事一覧

海よ山よ

朴訥の論

年明け早々、淀川にマッコウクジラが迷い込み地域を驚かせた。時々吹き上げる弱弱しい潮が命の終わりを感じさせ哀れを誘った。

 

東京湾にもクジラやイルカが見られ、赤潮による海苔の被害が報じられた。温暖化による海水の変化がもたらす効果だろうか。地上の変化は目にすることでまだ分かりやすいが、海中の出来事は想像すら出来ない。

 

国産材の運動を始めた頃、ある林業家から海水を飲み水に変える等海水に手を出せば地球の未来はないだろうと聞いたことがある。山からの湧き水は地下に浸透した数百年前の水だとも聞き驚いたものだ。そこの水を絶やさない為にも健全な森林の育成が必要だと熱く語られていた。

 

地球温暖化防止で二酸化炭素の削減が困難を極める今、沿岸に生育するマングローブや海草、海藻などが吸収する炭素はブルーカーボンと呼ばれ、CO2の削減対策として世界的に注目されている。

 

海藻は光合成で二酸化炭素を吸収し、枯れると二酸化炭素を吸収したまま地中に埋没し、長期間貯留させるという。海底の泥場には酸素がない為バクテリアによる分解が抑制されるからだそうだ。

 

その海藻藻場も消失が激しく、年平均で2~7%の割合で減少していると『Blue・Carbon』は警鐘をならしている。日本も例外ではなく、瀬戸内海の海藻藻場は沿岸開発や水質汚染の為1961~1991年の間に1万6000haが消失している。国も藻場や湿地の保全拡大の対策を練っているが、何より一般の意識がそこにあることが不可欠だろう。

 

宮崎の諸塚村から丁寧な礼状が届いた。昨年9月の台風14号の豪雨災害に対して行ったごく僅かな寄付に対するものだった。

諸塚村は平成17年9月にも台風による豪雨災害を受けている。その2か月後、当時取り組んでいた宮崎県諸塚村への「産直のふるさとツアー」が決まっていた。復興の多忙な時間を割いて案内頂いた事は、今考えても頭が下がる。

 

小型バスから見る景色は絶句するばかりだった。雨量は予想を遥かに超え、土砂は木々をなぎ倒し倒木と共に川沿いの商店街を押し流した。

 

驚きは、一人の死者も出さず、僅か2カ月余りで一応の生活が可能なまでに復旧されていたことだ。村民の気迫と爆発するようなエネルギーを感じ、胸が熱くなった。

 

あれから17年、昨年9月にまた同じような災害に遭われたかと思うと気の毒でならない。山村で暮らす宿命と言えばそれまでだが、復旧がスムーズに行われることを心から願ってやまない。

 

(2023年木族2月号より)

助け合って生き残る

朴訥の論

様々な林業家から木にまつわる不思議な話を聞いたことがあった。

 

伐採される木は今から伐採されることを知っているという。また一本の木が害虫に蝕まれると隣接する林から一斉に虫が嫌う物質を放出し身を守るなど、俄かには信じられず半信半疑で聞いていた。

 

先日、それを裏付ける番組がNHKで「超進化論」と題し、実験映像を放映していた。一見静かに佇んでいるだけと思われた植物にこんなコミュニケーション能力が備わっていたとは・・・。

 

葉が青虫に食われるとグルタミン酸が発生、化学変化を起こし葉で毒物を生成する。虫の種類や大きさによって毒の量を調整するというから驚きだ。また、森林の80%は木と木を繋ぐ菌糸のネットワークを地下に構成しているという。

 

 

土を入れたボックスの中央に松を植え、その左右に樫を植え、両方の樫にそれぞれ光が入らないように袋を被せる。一方の樫は完全に土中を仕切り、片一方は僅かに空気が通るメッシュで仕切り6カ月間様子を見たところ、仕切られた樫は枯れ、片方の樫は松が光合成でつくった養分を菌糸が樫に与え続け立派に生き残っていた。

 

樹種が違ってもその行為は変わらず、助け合うというから見事だ。

 

映像の終わりに、ダーウィンの進化論は生物は競い合って生き残ることを説いたが、超進化論は助け合って生き残ると締めくくられていた。

 

生態系に絶大な恩恵をもたらしてくれる森林だが、人類が引き起こす環境汚染は植物の地下のコミュニケーションを破壊し、毎週9万ヘクタールの森林が消滅しているという。争いの多い人間に植物の声なき声が届く日は来るだろうか。

 

近年、建築中の現場にも孤立感が生み出す自己保身なのか、自分の事しか考えられず許容力に欠ける人が増えているかに思える。新築に伴い水道業者が前の居住者が流していた側溝に雨水を流す工事をしていたところ、隣人からストップがかかった。大雨が降ると側溝が溢れるため雨水を流すなと言う。迂回経路に流すにも溝を詰まらせないという念書の提出を求められた。

 

都市部では開発に下水道の整備が追い付かず、大雨の度に道路が河川と化す光景をよく目にする。それであれば、地域ぐるみでコミュニケーション力を発揮し、広い視野に立った解決策を検討するべきではないだろうか。

 

樹木の様に相手を思いやる心は、助け合いの精神を育み、街並みに活力と潤いを与えてくれるだろう。

 

(2022年木族12月号より)

 

食が満たすもの

朴訥の論

台風一過、季節が急変するように秋を迎えた。スーパーに秋の食材が並び、肴がお酒を誘う。コロナで飲み会も久しいが、仕事仲間と過ごす時間は人となりを知る意味でも有意義なものだ。

 

随分前に飲み会で職人さんから聞いた話がある。母子家庭に育ち、母親が朝から晩まで必死で働いても5人の子どもを養っていくには時間とお金にゆとり等ない。

 

中学生当時、学校給食が無くクラスでお弁当を持たない生徒が2名居たそうだ。昼食時、弁当が無くても教室から出ることを禁じられ、先生と級友が食べる時間じっと席で耐えたという。友達の弁当の卵焼きを見ては幾度となく生唾を飲んだ。

 

多感な年ごろ、特に女子には恥ずかしく、その時ほど屈辱を味わったことはないと話す。育ち盛りで一番食欲旺盛な時期、せめて運動場に出ることを許されていたら、空腹を我慢するだけで済んだのにと、思い出して涙ぐんだ。数十年経た今も、その教師の顔が浮かぶという。

 

話を聞くだけで、それを毎日平気で行った教師に憤りを覚えた。子どもの気持ちを推し量れない教師に教育など出来る筈もない。唯一救われたのは、時に自分の弁当を分けてくれる友達がいたことだそうだ。今の時代に同じことをする教師はいないと思いたいが、いじめ問題を聞くにつけ、無神経と自己保身に流れる教師の存在を憂うばかりだ。

最近、障がい者のグループホームに携わる方から興味深い話を伺った。

 

ホームに入所している方が暮らしにも慣れ、精神的にも安定し休日などで4,5日自宅で過ごし戻ってこられると、体調を崩し精神的にも不安定になっていることが多いと話しておられた。ご家族は久しぶりの帰宅で、慣れない対応に追われ、手づくりの食事までは行き届かず店屋物で済ましがちだ。その施設では何よりも食事に重きを置き、食材や手づくりにこだわり提供されていると伺った。

 

食は胃袋を満たすだけでなく、どれほど精神を豊かにしてくれることだろう。会話が出来る環境の中で、満たされた食卓があればこれほど幸せなことはない。

 

千葉の友人が地域ぐるみで「こども食堂」を開いている。貧困が故に悔しい思いをする子らの空腹を満たすだけでも非行に走る子は減るだろう。続行を心から願いたい。

 

半世紀近く経った今も、活きのいい鯖に父を思う。板前だった父のバッテラは格別なものとして舌の奥に厳然と記憶されているのだから。

 

(2022年木族10月号より)

込み栓の儀

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棟上げは何度しても誇らしく楽しいものだ。大工さんが声を掛け合い、土台、柱、梁をカケヤで打ち固めていく。平面図で見ていたものが立体的に組みあがっていく様は、一日中見ていても飽きずワクワクする場面でもある。

 

一昔前は、近しい人も招き現場で一大宴会が開かれることも。大工さんとの会話も弾み、完成する頃には冗談を言い合える仲になっている事も多かった。今、同じことをすれば迷惑防止条例で、警察沙汰になるだろう。

もうそんな儀式をやる時代ではないと、地鎮祭や上棟式を省く工務店も多いと聞く。

家づくりの考え方も日々進化し、今まで主張してきた事を変化させる必要に迫られることもある。

 

先日、協会の昔を知る建築士さんに「以前のように屋根下地に30mmの杉板は張らないの」と、問われた。かつては、合板を極力使わないことを主張しそれを貫いてきた。最近ではコストも考慮し耐震性を上げる簡便な方法として、合板を使うことが多い。

 

住宅設備機器についても以前、基礎や構造に十分な予算をかけ、キッチン等の消耗品は予算が出来てから入れ替えれば良いと説いていた。しかし、今やキッチンは暮らしの中心でもあり、大切な家族のコミュニケーションの場でもある。後で買い替えると言えるほど安易なものでなく、水周りにはあらゆる事を吟味し、選択に神経を注ぐ。これだけ環境変化が著しくなれば、それに追随した反応が求められて然りだ。

 

そんな中、曲げないことの一つに上棟式がある。上棟式は棟が上がった歓びと、工事の無事を願い行う大工さんの祭事であり、お施主さんとの大切な交流の場でもある。

 

「込み栓」もまたこだわりの一つと言える。柱の引き抜き防止として土台、梁等と柱の緊結に一般的な金物を使わず、ホゾ穴を開け樫などの堅木(込み栓)を打ち込む。

 

先日、親子孫と3代揃った上棟式に花を添える儀式として「込み栓の儀」と名付け、込み栓打ちを体験してもらった。力いっぱいカケヤをふる子どもの姿に「ヨイショ、ヨイショ」と掛け声をかけ、参加者全員に不思議な連帯感が生まれた。家を商品と考える風潮があるが、多くの人の手を経て創り上げる物だと理解し、家づくりを楽しいものとして記憶にとどめて欲しい。

 

「僕の『込み栓』は、キッチンのこの柱やなぁ」自信に満ちたお兄ちゃん(小学生)の顔があった。

 

(2022年木族8月号より)

 

自らの働き方改革

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企業研修で専門学校の学生さんが3名参加してくれた。テーマを「小屋づくり」とし、プラン提案から模型製作をし、プレゼンをしてもらった。「どう、楽しい」に「楽しいです」の即答が返る。真剣に作業する眼差しが言葉を表している。

 

ところが仕事になると経験を重ねる程にマンネリ化し、情熱も色褪せてくる。人とはいい加減な生き物で、自らを甘やかせば生きやすい方向に流れがちだ。マンネリは自分が作り出した惰性に過ぎない。

 

以前、新築のプラン提案を社内コンペで行ったことがあった。設計歴30年のベテランと入社2年目の建築士がプラン提案し、お施主さんの前で個々にプレゼンを行った。

 

結果、選択されたのは2年目のスタッフが出したプランだった。後日、お施主さんに選択した理由を訪ねたところ、ベテランと比較して力量に差があるのは分かったが、この仕事をやりたいという情熱を感じ、それを叶えさせてやろうと思ったそうだ。

 

プランは描いたものの土壁仕様、茶室に出書院となれば簡単に出来るものでもなく、ベテランスタッフが手伝い完成させた。

今思えば快く指導に応じてくれたOさん(プランを競ったベテラン)の度量に感謝しかない。人の心を動かすのは技術でもお金でもない、純粋に仕事にかける熱意ではないだろうか。

 

国が労働力不足解消の一つとして推し進める「働き方改革」は誰でもがそれぞれの事情に合わせて、自分に見合った働き方を選択できるための施策だそうだ。確かに労働力の低下がここまで進めば、そうせざるを得ない状態であることは理解できる。

 

ただ今一度、自らに問いかけて欲しい。仕事とは何か、何のために働くのか。まず自らが出来る働き方改革はないだろうか。

 

仕事に集中できているか、少しでも時間短縮出きることはないか、重複して行っている仕事はないか、横の連携は取れているか、報告は徹底しているだろうか。二手三手先読みした行動がとれているか。考えられることは十指に余る。

 

毎日定時に終わり、給料もボーナスも望み通り、何のリスクも負わない、そんな会社が存在するだろうか。複雑な社会情勢に加え人の心も読みにくい昨今、そんな時代の中にあっても仕事が与えられていることに感謝し、その仕事に情熱をもって取り組めることを喜びとしたい。

 

それ即ち働き方改革。

 

(2022年木族6月号より)

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