昭和59年に当協会が発足し40年になる。かかわった家は800棟を超えるが、どの方も家づくりに一方ならぬ思いで取り組まれ、一様に環境意識に長け、考えれば世に先駆けてSDGsに取り組まれていたようだ。
とりわけ印象に残るのは兵庫県のMさんだ。協会イベントの常連さんであり、京都の床柱や竹林ツアー、淡路瓦や木製建具工場のバス見学、兵庫、奈良の山林視察ツアーなど数え上げれば切りがなく、参加者さん同士が連携を取り、情報交換をされていた。
設計の打合せにほぼ1年をかけ、念願の数寄屋造りの家が完成した。ご主人のこだわりは二室続きの和室と2間の本床に書院造りと広縁があることだった。
打合せは専(もっぱ)ら奥様が行い、竹小舞に土壁、室内は中塗り仕上となり、ほぼ大工と左官職人の技術に頼る家となった。延べ面積70坪(210㎡)がご夫婦の暮らしには負担かとも思われたが、温めていた夢を覆すには至らなかった。
圧巻は廊下や広縁に入川畳(いりかわタタミ)を採用し、使った畳は48畳に上った。もう一つのこだわりはキッチン、浴室、洗面所など家族が使う場所は質素に徹し、ことさら住宅設備機器はコンパクトな物を選択された。トイレも来客用と分け、自宅用は簡素なものだった。
当時、シックハウスがクローズアップされた時期でもあり新建材は殆ど使わず、土壁に混入する藁(わら)スサまでも無農薬の稲藁にこだわられた。床下の束石を固定するため接着剤を使ったことで大叱責を被った苦い経験もある。とにかく完成引渡し後、燃え尽き症候状態が続いたと語っておられた。
年明け早々娘さんから連絡があり、Mさんの訃報を知った。年末何度か電話を入れていたが、コロナの後、体調を崩し、8月に亡くなられていたそうだ。「色々考えたのですが、この家に住む事にしました。つきましては施工した民家さんにリフォームの相談をしたい」ということだった。生前Mさんが口癖のように「一生懸命建てたけど、この家に娘家族が住むかどうか分からない」と、寂しそうに話していたことを思い出した。確かに若いご家族が暮らすには広くて使いづらい。
リフォームの計画は、水回りを考え、ダイニングに続く畳の部屋を杉板にし、仕切りを外し家族がいつも集える場所に。
少しでもご家族がこの家に愛着が持てる提案になれば嬉しい。床の間には、仕事をやり終えたような満足げなMさんの遺影が飾られていた。
(国産材住宅推進協会・代表=北山康子)
~2024年木族2月号より~