昭和17年、臨月のお腹を抱かえた母を残し調理師であった
父はいくばくかの報酬を得るため軍属に志願、シンガポール
に出征した。
出産後、祖母と幼い三兄弟の家計を支える為、母は赤子を
預け、当時配給制であったガソリンスタンドの事務員として
働いていた。
敗戦の色が濃くなった昭和20年6月7日、B29の容赦ない
爆撃は大阪の街を焼け野原に変えた。当時住んでいた都島
区は軍事工場などもあり、空襲警報のたびに祖母に背負わ
れ防空壕に駆け込んだことをうっすらと記憶する。3歳児には
焼夷弾より壕内のゲジゲジが恐ろしく、鮮明に残る。
娘が成人し、母や漸く大阪大空襲のことを語り始めた。燃え
盛る火の中、トラックの荷台に乗り自宅まで逃げ帰ったこと、
京橋やうつぼ公園のあたりにはまだ燻っている黒焦げの遺
体が山積みにされていたこと。終戦になっても生死が分らな
いまま父は帰らず、周囲から様々な中傷を受け、飯盒一つを
ぶら下げて帰ってきたとき、娘は5歳になっていたこと。
当時、共に戦火をかいくぐり母に好意を寄せる人がいて、後、
1ヶ月父の帰りが遅れていたらその誠意に応え再婚していた
と打ち明けた。母にそんなロマンスがあったとは想像もつか
なかった。男勝りで正義感が強く、自分のことなど振り向く間
もないほど良く働く人だった。
母が60歳を迎えた頃、その人から手紙が届いた。
母と別れ大阪の地を去ったこと、母がその配給所で使っていた
木製の事務机を譲り受け、転々と行く先を共にした机は今も
自室にあり、大切に使っているとしたためられていた。現在は
孫に囲まれ幸せな生活を送っているとか、もう色恋もなくなった
今、ひたすらに懐かしくて一度逢いたいと結ばれていた。
頑として逢おうとせず「思いでは、思い出」という母に生を戦い
抜いた女の強さと潔さを知った。セピア色の事務机は母の思い
出とともに今も切なく、心に刻まれている。
8月15日終戦記念日に、70年前におきた南京事件の生存者
・夏淑琴さんの講演を聴いた。
9人家族の7人までが8歳の少女の前で惨殺された。生き残っ
た4歳の妹と共に過酷な運命を生き、昨日起きたように語る
小柄な78歳が、敵国であった日本人に命を掛けて訴えかけ
たものは国を超越した反戦以外のなにものでもなかった。
命に国境はなく、生きながらえたものにも残存する戦争の傷跡
に、今も戦う人を想わずにいられない。