米松は知っている ?2
Aさんから与えられた新築のチャンスは、全て国産材を使用したものとし、
古民家で見られる差し鴨居工法を採用することとした。
鴨居の背を大きくし、構造として生かす工法で、現在はほとんど施工されていない。
昭和60年当時は、建築関係者にも国産材で住まいをという認識がほとんどなく、
生活者は推して知るべしであった。
このときは奈良県吉野郡の黒滝村から木材を仕入れたように記憶している。
都会からUターンした若手の林業家や、森林組合の二代目で構成する若者が集まり
「菜子(さいこ)の会」を結成し取引きが始まった。
「菜子」とは山守が作業のために山に入るとき、三食分入る弁当箱を持参するが、
そのオカズ入れを「菜子」というらしい。
本物の吉野材だという印は木材に押されたサクラだと聞かされ、
遠山の金さんだねと笑ったことを思い出す。
民法のテレビ局が密着取材で丸二日をかけ、
吉野の山と、産直で建てられた差し鴨居の家を放映した。
ずいぶん乱暴なやり方ではあったが、テレビで訴えるには明解と、
同じ材寸のヒノキと米ツガの大引きの真中にブロックをそれぞれ同じ数だけ一昼夜ぶら下げ、
たわみ状態と復元力の違いを見るといったこともした。この説得は一般に受けた。
ある日、打ち合わせにきた「菜子の会」のメンバーが、
やはり事務所での酒宴で「国産材の事務所に米松のテーブルがあるとはなにごとだ」と竹中に切り込んだ。
受けた竹中は「オオ!良く言った。君らもキコリの端くれなら、
このテーブルを何分で真っ二つに切れるかやってみろ」とあおった。
バタバタと車からノコギリを取ってきた彼らは、やにわにテーブルを切り出した。
酔った竹中はテーブルの上で団扇片手に囃し立て、「ヤレ何分だ」とけしかけた。
数人が入れ替わりノコを引くが、竹中の体重もかかりノコが引けない。
「哀れ米松は20分かけて、吉野の山猿に真っ二つにされた」とは、竹中の言いぐさである。
その後5年間は二つになった米松の裏側にスギ板を打ち付け、
ガタガタになるまで大切に使わせていただいた。
やはり代わりのテーブルを買える状態でないことなど、竹中の脳裏には微塵もなかったのであろう。
ーつづくー
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