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2011.01.22
米松は知っている ?3
当時、旭化成建材が木造住宅専用のALC板(パワーボード)を開発し、
特約店向けのセミナーを各地で行い、その講師依頼が竹中にあった。
関東、中部、九州と講演に回るにも、旅費の前払いをお願いしないと
行けないという情けない状態にあった。
会社破綻から1年半後、一番迷惑をかける結果となった工務店の社長が、
ひょっこり事務所に来られた。
誰よりも協力的であり、間伐材の取り組みにも積極的で、
元大工ということもあって技術的にアドバイスをより多く受けた人である。
自ら職業病といわれるほど右肩上がりの肩に、お米を一斗かついでの訪問である。
「塩と米さえあれば生きられる」
一言の文句を言うでもなく帰って行かれた。
大三島出身で親方に手取り足取り教わったことは一度もなく
「仕事は盗むもの」と教えられ、夜中に現場に出向き、
懐中電灯をかざし仕口がどうなっているのか探ったという。
根っからの職人気質であり、苦労人でもある。
竹中の亡くなる1年前に亡くなられたが、右肩上がりの後姿は今も心に残っている。
皮肉にも米松のテーブルは7年にもわたって、
国産材利用推進活動の悲喜こもごもを見ることとなった。
この章は おわり
2002年5月掲載 「山林」見果てぬ夢 より




