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2011.01.20

「米松は知っている」 ?1

間伐材を使った「実験住宅」の反響に勢いを得、

国産材利用を提唱し建築会社を設立した。

一時は社員数も40名に膨れるほどの勢いを見せたが、

報告ほどの実績が上がらず、わずか3年足らずで行き詰まり、破綻したのである。

その代表取締役を兼任していた竹中は、道義的責任もあり

「全国住宅検査協会」の理事長を後続に譲り、下りる結果となった。P1120975.jpg

社会通念に照らし、常人であれば大阪の地で活動を起こせるものではない。

ところが竹中の国産材への情熱ははるかにそれを超えていた。

1年を待たずして国産材の推進活動を始めたのである。P1110933.jpg

昭和59年マイナスからの再出発であった。

寝食のための部屋はいらぬと、あくまでも事務所に固執したが、

お金などあるはずもなく、必死でかき集め、ようやく新大阪で8坪ほどの賃貸事務所に入居できたのである。

それでも竹中を慕い、一時は無給でもという2名の社員と、

事情を知った上で自宅の建築を任すといったAさんがいた。

事務所の3分の1をスギ板で囲い、私生活空間に当てた。

千円札1枚を握り、何日生活できるかといった日々であったが、

何もない殺風景な空間は、月を追うごとにスギ板が貼られ、

10?厚さの米松の大テーブルが居酒屋風事務所に替えていった。

入れ替わり立ち代わり焼酎を下げての旧友の来訪に、

狭い事務所は干物の匂いと国産材論議であふれた。

ーつづくー

2002年「山林」掲載「見果てぬ夢」より

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